医療経営管理士を創ろうとしている人のブログ

診療放射線技師みおきょうこのひとりごと

ルールを捨てるとき

ルールを含めコンプライアンスを守ることの価値を説いている当ブログであるが、今回は、ある面で真逆を述べる。

 

自分は約2年前、仕事帰りの電車の中で、ある事件のツイートをリアルタイムに見た。
その中で、今でも強烈に覚えていることがある。
それは、犯人と思しき人物がアスファルトに伏せた状態で、数人の大男から強く取り押さえられながらも、自身の行動が出す結果を冷静に観察し続けている姿だ。

 

自分はその前後も含めて映像を見たとき、この人物は狂っているわけでも暴力的でもなく、強い意思を持って冷静に考え抜いた結果、覚悟してやったのだと猛烈に感じた。
そのため、動機が気になって仕方なかったし、それが世間に知れることにより、今も社会を大きく動かしていることは、多くの人が感じているところだろう。

 

その手段の受け止め方について、未だに賛否両論出続けるのは、その事件があまりにも大きな影響を生んだだけでなく、正しさとは何かを突き付けているからこそだろうと自分は思う。

 

現行のルールは、それが作られた時点の正しさとして認められるであろうことを述べているに過ぎない。
例えば、江戸時代に武士が農民を切り捨てても咎められることはなかったし、さらにさかのぼれば、平安時代に平民が疫病で死に絶えようとも貴族は優雅に暮らすのが当たり前だったのである。
つまり、ルールとは、それを決める権利を有する階層にとっての正しさで作られている。

 

その理不尽な社会に対して抱いた途轍もない怒りの向こう側に、ルールを破ることで成し遂げられる正しさを見出したとき、それを実行するかは当人次第である。
また、それを成すために必要となる才覚を有しているかどうかにも由るだろう。

 

ただ、ルールを破るのは最終段階の最後の一手にしなければ、それを破ったことで動けなくなるリスクに見合わない。
自分が見たあの姿は、最後の一手を打った直後であると、映像から伝わってきたということ。

 

現時点の自分は、自分の成すべきことを最も高い確率で実現できるであろう手段を選びながら、これを淡々と実行している。
これを見ている人たちの一部から、自己犠牲だとか申し訳ないとか、自分の心持とは異なるメッセージをもらうことがある。
過去に述べた気もするが、自分は自分のやるべきことをやりたいようにやっているだけなので、ご心配には及ばない。
そもそも、最後の一手で社会のルールに沿えなくなるとしても、自分はやり遂げようとするだろうから、周りがどう思うかは自分の選択に関係ないようにも思える。

 

自分は診療放射線技師の仕事をおもしろいと思っているし、その専門性も臨床業務から機器開発など幅広く有するに至っている。
それでも、それらを捨ててでもやらなければならないと感じるからやり始め、そう遠くない将来、自分は診療放射線技師の仕事から完全に離れることになるだろう。
だからこそ、最後の最後にルールをも捨てることになっても、自分は必ず成し遂げるだろうし、それが成されるとき、自分がその代表である必要もない。
すべてを掛けて、自分はこれを成し遂げる。

 

結局、何が正しいかなど、誰にもわからない。
それは、自分の中にあるだけだ。

 

 

みおきょうこ@診療放射線技師 @Instagram
https://www.instagram.com/mioko1111/